ドンツキ高低差考

『全ての事象はドンツキで説明できる』と豪語する、当協会理事本間による考察

【ドンツキ高低差孝】
以前、当協会で「夕ドン~谷根千」を開催した際の雑感を記す。

【墨田←→谷根千におけるドンツキ】

墨田におけるドンツキの生成は、隅田川の支流にそって出来た農地や埋立地に人が移り住んで来た経緯がある。都市計画と言うより、空きスペースを埋めるように建てられた住宅の立地に則した形でドンツキが生まれた。今回調査を行った谷根千におけるドンツキの生成は、江戸時代に幕府の寺町として加護され、明治~昭和初期は軍略拠点も兼ね整備された街づくりが、時代と共に現代に変遷していった経緯が伺える。ドンツキの特徴としては、坂の勾配地形に伴い昔から存在しているものが多く、どちらかと言えば都市計画に基づいたものである。

【下町の歴史(昭和初期)】

戦後間もない昭和初期、墨田区では、集団就職などによる東北からの移入者が多かったと、地元の年配者に伺う機会があった。東北の産業は農業が中心(決してそれだけではなかった)だったそうだが、共同体組織単位で作業をする機会が多かったと仮定すると、敗戦間もない東京の復興は、隣近所、及び地区共同体(町会等)の結束の強さがそうさせたかもしれない。近所同士の結束が強まった結果、下町近辺では祭も盛大に行われるようになったそうだ。

自身が住んでいる町会(墨田区)の神輿担ぎで、こんなエピソードを聞いたことがある。

「神輿は神様の乗り物だから、上から覗いたらバチがあたるんだ。今から40年位前のお祭りの時、二階から神輿渡行を覗いていたお宅があったんだけど、若ぇ衆の目に止まってしまってね。玄関なんざぁ蹴破られてたからね。」

3月のレポートにおいて【上野のお山】については述べた通りだが、仰ぎ見る対象を崇拝する、服従する、もしくは目出度いものとして大事にするといった事例は、日本においては、江戸城(お上(神?))富士山、神棚、花火、七夕、十五夜、神輿、東京タワー、スカイツリー等々、挙げてみれば数多くあることに気付く。おそらく高く位置することは、建造物にしろ、自然物にしろ、社会のヒエラルキーにしろ、誰からも目につくようになり、広範囲に渡り特定の概念を共有させることができる仕組みであろう。列車の上りと下りも、天皇や将軍がいた東京(昔は京都)が基軸だ。

【キーワードは富士山】

3月の谷根千ツアーにおいて、日暮里にある富士見坂に立ち寄った。

現代(昭和後期~平成)と昔(江戸~昭和初期)の東京の景観において大きな違いを述べるとすれば、現代は都内全域どこからも富士山が見えないことに着目した。古い歴史をひも解くことで見えてくるものもあるかもしれない。そこで今回は富士山を研究テーマとし、高低差ドンツキを考察する。

富士山のみならず、日本の山々は信仰の対象として、古くから民衆に崇められてきた。日本に仏教が広まった際、土着の信仰と折衷して、主に自然を崇める神と、人が死んだ後、成仏される仏とが融合され、崇拝の対象となった経緯が伺える。その最たるシンボルが富士山だったと思わる(また信仰の背景には、民衆を一つにまとめ石高の生産性を上げる、または統率をとりやすくする政治的な意図もあったかもしれない)。

谷根千も例外ではなく、縄文時代から続く聖地と、明暦の大火以降、多くの寺社が移転してきたことも相まって、江戸の町人からは「上野のお山」と讃えられてきた。もっとも、「谷根千」はその山の裏手に位置する谷だったそうだが・・・。

では、江戸時代の人々の眼に、山はどのように認識されていたのか。私は絵画から読み解くことにした。この時代は制作者や鑑賞者が流行を汲み取り、外国から流入する技術等により様式も変わってきた時代である。ということは、庶民のものの見方や価値も変転した可能性がある。当協会が研究において常々示している「多様な切り口」に通じるものがあるかもしれない。

余談だが、当時は文字が読めない人がいた時代であり、錦絵は現在のように美術品としてではなく、土産話を遠くへ伝達するメディアの役割を担っていて、割と低価格で購入できたそうだ。鉄道や自動車など、交通機関が発達する前の話ではあるが、富士巡りは伊勢参り同様、庶民の憧れだった。北斎の富嶽三十六景は、庶民にはなかなか手の届かない需要を上手に充たしたメディアといえる。

先ずは、北斎の富嶽三十六景を元に日本絵画の遠近法を検証してみる(富嶽三十六景・駿州大野新田)。

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画面上方が遠くのモチーフ(遠景)。中間に少し離れた風景(中景)。下方に近くのもの(近景)を描くのが、日本における遠近法とされている。由来は中国の山水画にあるとされる。掛け軸など、縦長の構図では良く目にするが、横長比率の錦絵となっても、江戸庶民における遠近の認識を崩すことはない。

次にこちらの富士をご覧いただきたい。この構図は、西洋の遠近法を用いている(富嶽三十六景・五百らかん寺さざゐどう)。

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この時代、「浮き世絵」は「浮き絵」とも言ったようだ。絵の中の景色や登場人物などが浮き上がって見えるからだそうだが、西洋の遠近法がこの時代の日本人にとって目新しかったからだろう(正式に日本に伝わった年数は定かでは無いが、江戸の絵師、円山応挙が20代の頃(1750前後)眼鏡絵を製作していたことから、この頃には既に南蛮船経由で技法が伝わっていたとされる。ちなみに北斎の生涯年譜は1760~1849年である)。

【仮説:平面絵画において、山水画はドンツキ絵画である】

今ここに「山水画鑑賞はドンツキ鑑賞である」と仮説をたてる。極論だが、山頂はドンツキの果てである。昨今、山登りが流行っているそうだが、私から言わせればドンツキ巡りに他ならない。平地からそれを望む行為も同様である。

〈実験.1

「山水画における消失点の消失」

富士を消す実験(富嶽三十六景・尾州不二見原)。

fuji6 fuji6-2

西洋と東洋の遠近法がミックスされた構図である。

右の絵は視点におけるドンツキ、すなわち富士を消してみた。樽職人の造作のみに目が移ってしまい、タイトルをつけるならば「桶職人の絵」と言っても良いだろう。

一方、オリジナルの左側は、富士という非日常が背景に入ることによって、日常が対比として際立って現れているる。同じ絵であるが、右側の絵と比べると、日々単調な仕事の中にも悠久の時間を感じ、職人が抱えてきたドラマに深みが増す。

西洋の遠近法はルネサンス期に確立されたそうだ。聖堂の建築様式の発展に伴い確立された技術ゆえ、十字架のイコンへと向かわせる仕掛けがちりばめてある。日本における遠近法の果てには、西洋のような一神教のイコンではなく、庶民が仰ぎ見て手を合わせる対象、即ち富士が代わりを勤めたと言えるのではないだろうか。

「西洋の遠近法における消失点」は、即ち「山水画においては山頂部分のことである」

と、当時の日本における絵師が認識していたのではないか?と仮定すると、西洋における無限遠点であるべきはずの消失点は、東洋の山水画においては行き止まり(ドンツキ)であると言える。どちらも人間が容易に踏み込めない空間であり、非日常(ハレ)の創出であることに変わりは無い。余談だが私個人がアート(ハレ)を鑑賞する際、あくまでも日常(ケ)のありがたさを気づかせてくれる装置であり、生活の延長線上にあるものではないというスタンスをとっている。しかしながら、日用品などに装飾やデザインが施されていたりすれば、思わず見入ってしまうものである。常に生活の隣にあるもので、意識を傾けた際に鑑賞できるスタンスが望ましくもある。

さておき、ヨーロッパ諸国とは違い、平地続きではない島国ゆえに、この時代の錦絵は東洋と西洋の遠近法を折衷したのであろうか。高低差の激しい立地環境が、日本文化に与えた影響も大きいと言えよう(富嶽三十六景・東海道品川御殿山ノ不二)。

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余談ではあるが、北斎と腕を競っていた歌川広重についても触れておく。元来、

「北斎の絵は主張しすぎる」

と苦言を呈していたそうだが、広重の描く富士には北斎ほど遠近法は取り入れられておらず、主に山水画の名残りのある様式美に重点を置いている。中でも珍しく、道の果てにフォーカスを宛て、広重の絵にしては珍しく西洋の遠近法に軸を据えた『東海道五十三次 三十五番・御油宿』を考察する。

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先にも述べたとおり、当時浮世絵は情報伝達メディアの役割も果たしていたことを考えると、目と鼻の先にある次の宿場町『三十六番・赤坂宿』を意識した伏線としての構図であると言える。消失点の先には、さぞありがたいものがあると思わせる仕掛けである。

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色町、色宿を描くのにも露骨で野暮な描写は行わず、西洋と東洋の様式を用いることで互いを引き立たせている。「俺は北斎とは違ぇんだよ」と言ったか言わないか。広重の気高さが伺える一コマである。

【富嶽三十六景考・まとめ】

富嶽三十六景は江戸の住民にとって画期的な錦絵だったと言える。なぜなら、江戸に住んでいる庶民が、自分の住んでいる場所以外から、富士という視点ドンツキを軸にして、三十六通りの切り口を共有できるシステムだったからだ。つまりは

「自分が見ている富士の風景以外にも、三十六通り違う見方がある」

→・富士に関して三十六通りの思考パターンを持つことができる。これは一つの事象に関して幾通りのケースを瞬時に想像できる思考回路を形成できる要素である。

→・東京に居を構えるものにとっては、自分の住んでいる土地以外の土地を考慮した上で、日常の物事を洞察できる。

視点ドンツキを切り口に考察すると、江戸時代の民衆は富士山を基軸にこのような多元的な視点を持てていたことが伺える。

おそらく、一つのモチーフをテーマに、これだけの視点を提供した絵画は他に無いのではないだろうか。

現代の都市環境は高層建築に囲まれ、遠景を見渡せなくなり、以前のように一つの基点を中心に多元的な視点を持つことは、難しくなってしまったように思える。

【墨田区内における高低差考】

現在の東京では、昭和初期から比べればマンション、ビル群が多くなり、郊外の田畑というのも無くなった。国民にとって自然崇拝の共通イコン、富士山も気軽に眺めることができなくなった。

墨田区向島地区においてドンツキ調査を行う際は、自分がどこにいるのか分からなくなってしまう場合が多い。それは狭い道路の幅や、平坦な地形の形状だけではなく、地域のランドマークを担う高層建築物等を遮る三階建ての家屋やマンション等が増え、現在地を認識できなくなっているからと言える。路地の隙間から時折ニュッとスカイツリーが顔を覗かせる際、かろうじて現在地を確認できるが、よほど道を知っている地元の人間じゃない限り、目的地まで迷わないで到達することは先ず無いといっていいだろう。

【遠景の消失~「豊かさの価値」】

都心部から眺望できるランドマークの変転は、時代とともに移り変わった。それに伴い、時代に合わせシンボルが持ち合わせる指針も変転した。私見で根拠もなく、拙い形而ながらも、ここにまとめてみた。

・富士山、江戸城【江戸時代~敗戦】:安泰

・東京タワー【高度経済成長期】:成長、発展

・スカイツリー【現代】:消費、技術力

・マンション【現代】:生活

・ビル【現代】:職業:経済:技術力

人口が増え、住宅が増え、マンション、ビル群が都心部を被うようになり、次第に富士山が見えなくなり、東京タワーも見えなくなり、現在はスカイツリーがときたま顔を出すというのが、東京の風景の移り変わりだと言える。風景や住環境が多様化するに連れ、人々の趣向も多様化したのだろう。

本日、墨田区内の公園ベンチで休んでいると、タバコを一服しに年配の女性の方がやってきた。海外出張中の息子が帰省したお話や東京大空襲のエピソードなどを語る中、富士山の話題を振ってみた。

「私が若いころは、浅草や(墨田区)本所の辺りにも富士丘があってね。見晴らしのいい高台から、富士山拝んだもんだけどね」とのこと。

後で調べた所、全国各地にある浅間神社の分祀がそれを司るようだ。やはり日本人と富士山は密接な関係だったのだろう。

江戸~昭和初期の時代において、遠く離れた地を日常的に意識下に置きながら生活を営むことは、目先の情報に惑わされる事が無く、自分とは関わり合いの無い事柄でも頭の隅に置く、広範囲に配慮を施した次元の思考が生まれた可能性が伺える。半面、現在の東京においては高層建築が乱立し、遥か向こうを見張るかす遠景が失われた。三十六景に見られるような外部社会、ひいては環境全般を思いやり、心の安堵を保つ代わりに、経済的、物質的な個人主観の豊かさが人々の憧憬へと移り代わってしまった時代。儚くもそれが現代なのかもしれない。

【『富士山』←→『ドンツキ』の関係性】

今回の考察は、当協会が研究している道の行き止まり、すなわちドンツキとは正反対に位置する遠景の果て、富士山がテーマであった。対極をなす二つの場所の関係性を検証する。

●「ドンツキ」→「富士」の視点(仮説)

結論から言えば、ドンツキに住む、またはドンツキに関わることは、近隣住民のコミュニケーションが活発になる。半面、他の場所と関わらないでも生活できてしまい、ローカル意識に陥りやすいデメリットも抱える。生活色の濃い場所に住むことは、日常と隣り合わせで暮らすことであり、もちろんそこに生活の潤いは感じられるのだが、それらを適宜リセットする為のハレの装置として富士山は存在したのではないだろうか?

●「富士」→「ドンツキ」の視点(仮説)

富士山頂から見渡す視点は、非日常(ハレ)の空間である。一つのドンツキを意識して観ることもなく、街や集落は一つの集合体として認識する。それ以外でも、地平に続く山の尾根や人々が生活をなす平野、太平洋の水平線や来光、果てしない雲海などが眼前に広がるとすれば、人が作り出す都市も、人智の及ばない自然の営みの一部であることが認識できる。当然ながら山の上では生活を送ることはできない。つまり社会と切り離された空間である。非日常の空間は日常への回帰を促す装置ではないだろうか?

●「低地ドンツキ」←→「高地ドンツキ」の関係性(仮説)

ここで言う「高地」とは、高台や丘など、人が住宅を構えコミニティーを形成できる範囲をさす。低地ドンツキと高地ドンツキを比較した場合だが、高さが増すほど、その土地と人の生活との関係性が強くなり、ローカル色が強くなる。それとは対極に、日常から離れるハレの場を提供する装置を併設している場合が多いのではないだろうか?

今回の考察では4点程仮説を立ててみたが、検証はまだまだこれからである。

(記/本間)

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